とある酒田の街角で
当集会では、聖書の福音を皆さんにお伝えしようと、トラクトと呼ばれるチラシを街頭で配布したり、戸別配布をしたり、そして今まで連絡を下さった方々に小冊子を送るなどをして伝道を行っています。
このようなことを行ってもう数十年になりますが、残念ながらここ数年、そのような活動に対する反応が激減しております。少し前までは、そのトラクトに対して数通の返事があったり、電話があったりとしていたのですが、最近では全く反応がなく、とても残念に思っております。
それにしても、どうしてこんなにも聖書や信仰に関して関心が薄れてしまったのでしょうか、その理由は色々考えられると思いますが、そのひとつに、およそ20年前に起こったオウム真理教の事件があります。オウム真理教は、さまざまな宗教の教えを寄せ集めたものであり、その中では聖書の教えも利用しています。(ハルマゲドンなど)そして、いたずらに人の不安をあおることを行い、信者たちを反社会的な行動へと駆り立てました。
このようなことが起きて以来、ますます宗教は怪しく、非科学的であると考える人が増え、また普通のクリスチャンに対しても似たような目で見るようになり、日本の社会全体が宗教そのものを警戒するようになってしまったように感じます。
また、私の親の世代が育った、戦中戦後の貧しかった時代などは、生死に向き合いながら生活をしなければならなかったわけですから、その当時は、嫌が応でも生きることの意味を考えざるを得なかったのかもしれません。
しかし現代は、そのころと比べると非常に豊かになり、バブル経済崩壊やリーマンショックなどを経験したとはいえ、最低限の暮らしは確保できている場合がほとんどです。生活が苦しいと言っている人の多くは、内容はともかく毎日の食事ができ、携帯電話を使い、車を持っていたりするわけで、生活水準が上がり、それに伴う出費が増えたことによって、生活が圧迫されているようにも見受けられるのです。
それでだけでなく、巷では様々な娯楽に満ちています。その結果、若い人々は、真面目なことをあまり考えようとはせず、今現在をどうやって楽しく生きるかということに夢中になり、遊びや恋愛などに没頭しているように見えます。
これらの結果、現代人の多くが、生きることの意味や、死後のことなど、人生の根幹にかかわる問題について、考えることをやめてしまっているように感じます。
こういった現状を、クリスチャンである私から見ると、少し「恐ろしい」と感じてしまうのです。
なぜなら、聖書に「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者(サタン)として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪霊)に従って、歩んで」(エペソ人への手紙2章2節)いる、とあるからです。つまり、このような生き方は、目には見えませんが、サタン(悪魔)という存在に支配されている生き方ということになるのです。
そしてそのような生き方の顛末は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27節)とあるように「永遠の滅び(地獄)」に行かなければならないのです。
ですから私は、街行く人々が私たちの配る福音のことばの小冊子などに興味を示さず、むしろ煙たがる、拒否するという場面に出くわすと、とても悲しい気持ちになります。それはまるで、「そのまま真っすぐ行ったら崖があって転落してしまいますよ」という警告に対し、「そんなもの見えないし、なんだか楽しそうだから構わないで下さい、迷惑です」と言っているかのように映るからです。滑稽な、失礼なことを言う、と思われるかもしれませんが、これは決して脅しでもなんでもなく、神のことばである聖書が語っていることなのです。罪を持ったまま生きるならば、その顛末はこのように大変恐ろしい結末が待っています。
しかし、聖書にはそのことに対する解決を示しています。それがイエス・キリストによる救いです。私たちはまさにそれを皆さんに伝えようとしているのです。これらのことについてもっと詳しく知っていただきたいのです。
聖書はこのように語ります。
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし(キリスト)を信じる信仰によって、彼ら(皆さん)に罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国(天国)を受け継がせるためである。」(使徒の働き26章18節)。
ぜひ、集会においでくださり、そこで語られる聖書の話(福音)に耳を傾けて欲しいのです。心からお勧めいたします。
皆さんの来会を心よりお待ちしております。