東日本大震災から思う

私はライフラインに関わる仕事をしています。5年前の3月11日はちょうど転勤で秋田県のとある市に赴任しており、当日は今年と同じように金曜日でしたので、午前中に酒田の自宅に「今日は帰るから」とメールをしました。

午後、仕事をしていた14時46分、突然大きな揺れが発生し、慌てて立ち上がったけれど、あまりの揺れの大きさにまた椅子に座り込んでしまいました。
ライフラインの供給を示すデジタル指示計の値はみるみる下がりゼロに、その後には事務所が停電、そんな状況に揺れが収まってからも、自分を含め、皆呆然として何が起きたのか、どうしたら良いのかと困惑。上長も指示を出せずにいました。
かつて経験したことのない揺れと、まずは起こらないであろうと考えられていたライフラインの完全供給停止、全て想定していない出来事で、皆完璧な備えがなかったので、皆戸惑いを隠せませんでした。

とにかく気を取り直し、全員で設備の損傷などがないか点検、そして供給再開に向けて準備を進めるための様々な指示と同時に、家族の安否の確認も指示されました。しかし家族との連絡は全くつかず、テレビも見ることの出来ないため、情報もほとんど得られませんでした。ただひたすら復旧作業を続けるしかありませんでした。

夕方になってようやくテレビを見ることができるようになりましたが、画面で始めに目にしたものは太平洋側を襲う津波の様子でした。あらゆる建物、自動車、土砂、船舶などが広範囲に流される光景に私たちはまたもや呆然、この地震のもたらした影響の大きさに皆ことばを失ってしまいました。

聖書の中にも災害は多く出てきますが、代表的なのは皆さんも耳にしたことがあるであろうノアの洪水です。人の悪が増大したため、神様が世界を水によって滅ぼしたという事実です。これはとてつもなく大きな災害で、地球全体が水に飲み込まれ、ノアという信仰者を含めた8人の家族と、数種のつがいの動物のみが生き残ったものです。東日本大震災をも凌ぐ大災害です。

しかし、今の時代、度々襲う災害を、神様のさばきとして説明するとすると、とてもデリケートで、大変丁寧な説明が必要です。なぜなら、災害が天罰だと言い切ったら、皆さん納得できるでしょうか?きっと納得できないでしょう、簡単に割り切れることではないと思います、私たちにとってもある意味同じす。ですから私たちは災害とは神様の摂理(神様にしかわからない何か特別な意味を持った行動)であると考えているのです。

ただ、一つ言えることは、今回の震災で多くの人が「災害に対する備えをしなければならない」と感じたように、私たちはいつ来るかわからない自分の「死」に対して備えが必要だということです、たとえ災害から逃れても、死は必ずやってくるからです。
そして人間は死んで終わりではないと聖書は語ります。その先には永遠の天国か、永遠の地獄という二つの道しかないと記されており、それは観念でも想像でも、作り話でもない真実のことなのです。

皆さんはこのとを信じられますか?信じられるとしたら、自分はどちらに行くとお思いでしょうか?そもそも、そのように死と死後のことを考えたことはあるでしょうか?
聖書はこの問題を詳しく説明しています。皆さんがこのことに向き合い、このための備えをしたいと思うならば、神様のことばであるこの聖書からいつでもこの問題の解決を得ることが出来るのです。つまり、死と死後の保証という究極の備えをすることができるのです。

多くの尊い命が失われた大震災を通して、私たちはこのことについて真剣に考えなければならないのではないでしょうか。是非、集会においでくださり、聖書のことばを通して今すぐに死後の備えをして、真の安心を得てください。

震災から5年目を迎えた今日、強く願っております。