聖書の信仰

「聖書」、「神」、「キリスト」、と聞くと皆さんは何をイメージしますか?ほとんどの人はキリスト教という宗教で、その教えは「排他的」、「非科学的」、「怪しい」などのイメージがあるのではないでしょうか。

これは世界中で起きる「テロ」や、振興宗教を語って病気などの人の弱みにつけ込む詐欺行為等により、大きな社会問題・国際問題に発展するケースがあったことが影響しているからだと思います。

また現代の科学の進歩が目覚ましいため、聖書の内容や神の存在を、もはや古い時代の未発達の考えと受け取られるということもあります。

ただ、このようなイメージは今に始まったことではなく、大昔から存在しているものです。
「死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは『そのことについては、もう一度聞くことにしよう』と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。」(使徒の働き17章)
これは今から2千年前にパウロというクリスチャンがギリシャのアテネで、知識人たちに対して聖書の福音を伝えた際の人々の反応です。
しかし、そのような歴史をたどりつつも、聖書とキリストの教えはすたれることなく、今にいたるまで残り続けているのです。これは、いくら科学が発展しても、またそれぞれの時代の政治・宗教をもってこれを否定しようとも、人間の神を求める思いはなくならず、そして聖書が偽りのない神のことばで、時代や文化に影響されない、決して変わることのない、信仰による救いを多くの人々に与え続けてきた唯一無二の書物であるからなのです。パウロはこの出来事があった後に、こんなことを語っています。
「十字架のことば(イエスキリストの身代わりの十字架と復活)は、滅びる者たち(信じない者)には愚かであっても、救われる私たち(信じ寄る者)には神の力です。『わたしは知恵ある者(学者)の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る』と書いてあるからです。知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し(宗教的救い)、ギリシア人は知恵を追求します(学問による救い)。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」(コリント人への手紙第二・1章)

この案内を手にしたあなたは、ひょっとしたら聖書をお読みになったことがあり、聖書や信仰について一定の考えをお持ちになっている、またお読みになったことのない方でも、世の中の様々な情報によってご自身なりにそれらについて考えておられるかもしれません。

しかし、そのようにそれぞれ考えをお持ちの方々も、また単純に聖書に興味があり、ただ話を聞いてみたいという方も、是非、当集会の伝道集会にお越しくださって聖書の話をお聞きになってみませんか?